ごっちゃんのひとりごと

ローカル好き国際系大学生の思ったこと体験したこと

私なりの普通を考えてみた

「普通に考えたら分かるよね?」

そう言われて怒られた過去が幾度となくある。

その瞬間「私は普通じゃないのか」と落ち込み悲しみ、「通常レベルのことでさえできない自分が情けない」と悲観的に考えるようになってしまった。

しかし色々と少量ながらも経験を重ねることで、この言葉の恐ろしさを知ることとなった。

休学するのは普通じゃないのか?
新しい場所に住んでみたいと思うのは普通じゃないのか?
嬉しいことがあったら飛んだり跳ねたりしてしまうのは普通じゃないのか?
好きなものを見つけたらどこまでも追いかけたいと思うのは普通じゃないのか?
どんなことでも100%を目指すのは普通じゃないのか?

ちょっと離れたことを言うけれど

障がい者は普通ではないのか?
不登校は普通ではないのか?
被災者が笑ってる状況は普通ではないのか?
転職するのは普通ではないのか?


どれも私にとって「当たり前」で「普通」のこと。

誰に何と言われようと、私の中での現時点での「普通」である。

普通はその人の育った物理的環境、人的環境、その他経験などによって形成される。

だから結局人によって「普通」は違う。

いつの間にかそれが自分の中のものさしとなって、ある一定のラインで物事を判断する基準となっているのだと思う。気づかない間に当たり前になることで、自分以外の人間にとっても通用する「常識」と思い込んでしまう。
そして時々によって付け足されたり、再編されたり、削除されたりすることがある。10年前普通だったことも今じゃ普通に感じなくなっているとは、その代表例である。

 

つまり「普通」は不確かなものである。


この国は社会一般の中での「普通」に対する意識が非常に強い。
だから私も「自分が普通じゃない」と言われると、イコール「自分はおかしいのかな」と思っていた。
その意味では「普通」は「正義」であり「善」であり、とにかく「あるべき姿・状態」を指しているのではと考えられる。

結果として言ってしまうと、以上のように社会の中で俗に言われる「普通」は「一般的」であることを指している。

つまり各々個人が持っている「普通」とはかけ離れたものとなっている。


私は社会でいうところの「普通」になりたいとは思わない。
見知らぬ大勢の人がいうところの「あるべき姿」になったところで、私は私であって私でないものになってしまう。それはまるで生きながら死んでいるような状態だ。
そんなに多くの人とも知り合えないから、守るものもない。
自分の守備範囲で自分の思う自分でいれたらそれでいい。いや、それがいい。

しかしそれよりも強く思うのは、一人ひとりの普通(=当たり前)がそれぞれで異なっていることを意識すべきということだ。

自分が分かっているからといって、相手も分かっているはずがない。
自分にとって普通のことも、相手にとってはありえないことかもしれない。

他人との関わりは想像以上に複雑で、単純で、悲しくて、おもしくて、めんどくさくて、難しくて、簡単である。
訳わかんないけど、結局その中が気持ちよくて他人との関わりはやめられない。

それはそれぞれの「普通」が異なっていて、多少なりともぶつけ合うことで様々な体験ができるからだと思う。


だから「それは普通じゃないよ」とは言わないでほしいし、自分の普通を基準にして様々な判断をしないでほしい。
個人そのものも、1人1人が持っている考えも、相手に出会えたことも、こうして話す機会があることも、全てすばらしく、何にも代えられないかけがえのないものである。

その言葉があなたにとって「普通」だったとしても、相手の感じ方なんてあなたの思う「普通」ではない。

たったそれだけで、人を傷つけ、誰かを失うことがあることに気づいてほしい。

 

だから誰かを叱るときは

「普通に考えたら分かるよね」ではなくて

「常識的に考えたら分かることだと思う」と言ってほしいなと思う。


こんなことに気づくのに21年かかってしまった。
もっと人それぞれが楽しく、自分の軸を第一に生きていけますように。

おわり