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ごっちゃんのひとりごと

ローカル好き国際系大学生の思ったこと体験したこと

どのように処理したらいいのか分からないこと

知人との会話で「私は子供の頃頻繁におもらしをしてた時期があったけど、おもらしって何でおもらししてるか分かんないのにおもらしするし、自分でもどうしたらいいのか分からないのに怒られるし、どうしたらいいのか分からなかった。どうやって治ったのかも分からない。今考えてみてもなぜ怒られたのか分からない。」という話題が出ました。

 

正しくそうだと思いました。

おもらしって寝てる間に自分の意思とは関係なく尿が出てしまう現象なので、それでどうにかしろと言われても、どんなに怒られてもどうにもならない。小さい子供には尚更分からない。知人は寝る前にトイレに行っても治らなかったそうで、毎晩にように母親に怒られ、精神的に追い詰められたと言っていました。

正しくはどう対処すべきだったんでしょうか。病人にでも行ったら薬でももらえるのでしょうか。

 

この話をきっかけに振り返ってみるとよく分からない事を追及され、それは本当に正しい対応なのか?と疑問に思うことがありました。

今日はそれらを少し書き留めます。

 

給食を残すと怒られる

私は義務教育9年間、昼食として給食を食べていました。

特に小学生のころは「残さず食べろ」という風潮が強かったのを覚えているのですが、その中でも印象的なことがありました。

普段から食べるのが遅い同級生がいました。ある時その子は、給食の時間が終わってもずっと給食を食べ続けていました。掃除の時間が終わっても、昼休みに入っても…1人でずっと黙々と食べ続ける。ご飯が、お味噌汁が、冷たくなっても食べ続けている。広い教室で、友達が掃除をしている中、ドッジボールで遊んでいる中自分だけは給食を食べなくてはならない。先生は「残さず食べなさい」の一点張りで、全て食べきることが何よりも大切といった態度でした。

本人はどう感じていたのか当時尋ねることもなく、今となっては知りえませんが、はたから見ていた者にとっては気の毒で仕方ありませんでした。かといって何もできませんでしたが。

確かに小学生の期間は体を作っていく大切な期間で、栄養を十分に取ることは大切です。しかし無理に食べたからといってそれは達成されるのでしょうか。今思うと、たまたま量が多くて食べきれなかったのかもしれないし、たまたま体調が悪くて食べられなかったのかもしれないし、苦手な食材・料理だったから食べるのに時間がかかったのかもしれない。たまたまその日に食べる量が少なかったからといって、その後の成長の妨げになるのでしょうか。「なぜ食べられないのか」という原因を先生は尋ねるべきだったのではという思いが頭をぐるぐる回って止まりません。そして食べ続ける行為は食育として正しいのかが分かりません。フリー写真, 食べ物(食品), 野菜, 果物(フルーツ), トマト, 人参(ニンジン), 苺(イチゴ), リンゴ, 葡萄(ブドウ),

また仮に嫌いな物がだったとして、なぜ必ず食べなくてはいけないのかが分かりません。

そりゃあ好き嫌いしすぎると将来的に困ることもあるでしょう。でも、だからといって別に苦手な物があっても大人になれるのではないのですか?今すぐ改善すべき問題でもないと思います。私も3年位前にようやく生トマトを食べられるようになりましたし、無理に焦らなくても徐々に好きになって、食べられるようになればいいのに。

経験だけに基づいていますので、隔たりはありますが、ここで思い切って隔たりのあることを言います。私は給食によって好き嫌いが改善された試しがありません。むしろ嫌いになった食材もあるくらいです。

その食材はきのこなのですが、同級生のほとんどが給食によって「きのこが食べられなくなった」と言っていました。原因は見た目とにおいでした。普通の3~5倍くらいに膨張したきのこの姿は不気味なオーラを漂わせ、強烈な臭いは「香り松茸味しめじ」の決まり文句を抹殺する勢いがありました。何度も吐きそうになったあの匂いを生涯忘れることはないと思います。大きな声では言えないから小声にしました。

何年もかけて最近ようやくきのこが食べられるようになりましたが、わざわざ嫌いにさせるような調理ってどんなものかとものすごく気になります。あんな変なきのこ今まで見たことない。魔女の呪いでもかかっていたのでしょうか。

要は「好き嫌いするな、無くせ」という方針のわりに、逆に嫌いになるような料理を提供してくるのが全く謎すぎて理解できないのです。そんなものを食べさせるなんて、一体全体どうなっているのでしょう。あれ絶対クレーム入ってると思うんですがね…。

私の場合元々食べることが好きで、徐々に食べられる物が増えていくのが楽めたので、成長と共に嫌いな物は大方食べられるようになりました。でもそれも長いスパン(小学生より成人以降も含む)をかけて好きな物が増えていったので、別に小学生の間に全て解決しなくてもいいだろと思います。無理やり食べさせられることによって食べることが嫌いになったり、嫌いな食材が増えたり、強制されることのトラウマ等を生まれているのだとしたら、そのほうが良くない気がします。

最後に「この世には十分にご飯を食べられない人だっているんだから、あなたは食べなさい」という言葉について言及します。

確かにそれは事実かもしれないけど、それって今食べなきゃいけない理由になりますか?別の問題を無理やり繋げている感覚がして何とも言えません。食べたくても食べられないときだってあるんです。もちろん、そういった事実を無視してはいけないことは知っていますし、思っていますが。

またこれはモラルの問題でもあると思います。事実を知った人がどう思うか、どう行動するかという個人の判断に委ねられている。もしそう思わせたいのだったら、「世界がもし100人の村だったら」等世界平和に関するドキュメンタリー番組を見せたり、それにまつわる特別授業を行う方がよっぽど心に響くのではと思います。その後「だから給食を残さず食べましょう」と繋げられるかは分かりませんが、何かしら感情を引き起こすことはなるだろうし、気づきとなって新しい行動が生まれる可能性はあります。それも子供自身の判断がつくので、他人がただ呼びかけるよりもよっぽど効果があるではないでしょうか。まあ学校の先生も大変なので、そのあたりは給食センターや管理栄養士さんにお任せすべきことだったのかなあ…。

とにかく、その同級生が今どうしているかは分かりませんが、食べることに対して消極的に育っていないこと、また変なトラウマとなっていないことを祈ります。

個人的には嫌いな食材を好きにさせてくれた両親に感謝します。

 ▼世間一般ではどうなんでしょう

spotlight-media.jp

分からない事を怒られる

一時期母親に勉強を教えてもらっていたことがあったのですが、どうしても分からない問題があったとき「どうして分からないの!」と怒られていました。いや、どうしてって言われても「分からないものは分からない」としか説明しようがありません……。

これは教える側の忍耐力にも関係しているのでしょうけど、怒ることで解消されているのは教える側のフラストレーションで、私の疑問ではないんですよ。

そりゃ理解できない私が馬鹿だし、理解しようとする努力が足りなかったのでしょうし、そもそも母に質問したのが間違ってたのかもしれない等、結局私が悪いんですけど怒られることで次の質問がしにくくなっちゃうんですよね。まるで質問したらいけないという風に。分からない=悪いという図式もできちゃう。

分からないことが悪いにつながってはいけないんです。分からない事は新しい世界へのステップみたいなもんで、理解できたときの「やった!できた!」という成功体験を得る可能性を作り出すきっかけになると思うのです。ひいては自己肯定感を生み出すのです。

▼この本にそんなこと書いてありました

Amazon.co.jp: 公文式がわかる 改訂版 eBook: 公文公教育研究所: Kindleストア

こんな大事な機会を潰してしまうのは非常に悲しく思います。 

途中から母には「もうお母さん分からないから、先生達に聞いて」と半ば投げやりに言われる様になりました。

私は将来子育てをするかどうか分からないけど、誰かを教育する立場になったときには相手の「なぜ分からないのか」を追求し、自分でも分からない事があったらそれを伝え、一緒に解決に取り組んだり、自分の力でどうしようもできなかったら他の人に助けてもらったりしたいです。

「分からない」は次へのステップ。それを上手く活用すべきだと思います。

 

名前を漢字で書いたら注意される

小学生の間はひらがな→カタカナ→漢字の順で文字を覚えていくものですが、自分の名前を習っていない漢字を使って書くと「ひらがなで書こうね」と注意されることがありました。せっかく自分の名前が漢字でどうやって書くのか知って嬉しくて、書けるようになったのに注意されたの悲しかったなあ…。

多分他のクラスメイトが私の名前が読めない、という事態を回避するためにそう言うんでしょうけど。

だったらひらがなをふるよう促すとか、なんか方法ないのかと思ってしまうんですよ。自分の名前くらい漢字で書いてみたい。その漢字に意味だって込められてる。漢字使えたら大人になった気がして、本当に嬉しかったのに。

これ先生の立場にたったら何とも言えない気もするんだけど、あのときの悲しさを思い出すとやっぱりショックです。

 ▼かなり前ですが、議論にも発展したらしい

www.news-postseven.com

身に覚えのないことで怒られる

高校時代吹奏楽部に所属しており、毎日演奏能力の向上のため練習に明け暮れ、ある役割(部を運営する上での係)を務めるなど、とにかく色々やっていました。ちなみにわりと上を目指しており、実際結果も支部大会程度ではありますが残している学校でした。

どちらの面でも先生より「なんでこれをやっていないのか」「こうしろと言っただろ」等と怒られることがあったのですが、前と言ってたこと違うし、むしろそれ私の担当じゃないしということが起きすぎでした。

そして怒られる状況が状況でした。

パターンとしては、個別での先生の部屋への呼び出しと、合奏練習(全員が集まり曲を全体で合わせる練習)中・またはその合間と大きく分けて2つあるのですが、私の場合圧倒的に後者が多かったです。

前者は前者で怖いのですが、後者の場合全員の目の前で怒鳴られるってただただ申し訳ない。本当に私がやらかしてしまったことはいけないんですが、それもそれで見せしめみたいですごい嫌でした。全員の時間を奪ってることになるし、非効率的すぎませんかね。悪いことは分かったから、私だけ怒るんだったら今わざわざやらなくてもいいでしょ…と思っていました。

でも1番迷惑なのは身に覚えが無かったり、自分の守備範囲以外で怒鳴られることでした。怒鳴り始めたらもう止められないし、とりあえず外堀が収まるまで聞いといた方がいいだろうと思っていたので、特に訂正することなくそのまま聞いていました。私じゃないですと言って他のメンバーが怒られても、それはそれで申し訳ない。なすりつけみたいだし。シーンとしてる中先生にひたすら怒鳴り続けられる時間は苦痛でしたが、それが間違っていることをメンバーも把握していたのでそこは救いでした。

まあ先生も還暦近かったし忘れっぽかったし。。。毎日あんな長時間やってたらイライラするのも仕方ない。怒られるようなことをする私が悪いのですが、でも何でも間でも私がやらかしてるわけじゃないんだよということは知ってほしかったです。悪目立ちしやすいので仕方ないのでしょうか。

この経験を大人に話すと「まあ、社会でたら理不尽なことばっかりだしね」と言われるのですが、これは理不尽に慣れるための訓練なのですか?忍耐力をつけるってこの方法で合ってるの?ていうか理不尽が当たり前の世の中っておかしくない?訳が分かりません。

部活を通して学んだことはたくさんあります。しかし私は世渡りのためでも、理不尽を知るためでも、部活をしたわけではありません。一体この経験は何に生きるのでしょうか。一応怒られることには慣れたので、そういった耐性は着きましたが…それってなぜ必要なの?今後どのように活かすべきなのかも、当時どのように対処すべきだったのかもよく分かりません。

部活は楽しかったし多くの学びと経験がありました。だから部活の全てを否定する気にはなれません。まともに怒られたのも含めてとにかく怒られた3年間で、そもそも怒ってくれる人がいること自体貴重なので、その点ではありがたく思っていますが。

▼ブラック部活かと言えば、なんとも言えない

president.jp

▼すごすぎる…

youtu.be

まとめ

年としては21歳で若い分類に属していますが、どうしたらいいのか分からなかったことって少なからずありましたし、今もどこかにあるのかもしれません。あまり過去に捉われて生きたくないですが、こうして思い返すことで自分自身の行動を見つめ直す機会にもなりました。今回書かなかったけど、自分のひどい行動も見つかったのでそれは反省して、今度気を付けていこうねと心の中で決めました。

まだまだあまちゃんの私ですが、今、これから関わっていく人達にはそのようなことが起こらないように努めていきたいです。ありがとうございました。

 

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